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執筆者の写真Mikiko Tamaki

お土産がほしかった。




東京に暮らしていた時、けっこうよく悩んでいたことがある。

それは、お土産をなににするかということ。

地方に暮らす、お世話になったあの人に、どんな手土産を持っていくか。どんな季節のご挨拶を贈るのか。

いつも悩んだあげく、これだ!というものが見つかったためしがなかった。

空也もなかとか、言問団子とか??、ひよことかたぬきとか鮎もなかとか、東京にだって東京を代表する手土産がたくさんあるし、雑誌やなにかでもよく特集されている。

けれど、「私が」それをあげるべき必然性みたいなものがいまいち見つからなくて、どうにも決め手に欠けていたのだった。


愛媛のあの人が送ってくれたみかんやレモン。

毎年奈良から届いていたトマト。

子どもの頃は、福島で漁師をしていた親戚が魚を送ってくれたっけ。

そういう品々に匹敵する切実さを帯びた土産ものが、私にはなかった。

そう、うっすら気づいていたけれど、やっぱりこれはアイデンティティの問題なのだと思う。

似たような経験をしている東京在住者、多いのではないだろうか。


それはつまり、私は東京という生まれた場所に、コミットしきれていなかったということだ。

福島県出身の父が家族で東京に引っ越してきたのは父が小学3年生のときのこと。

母は疎開先の山梨で終戦の年に生まれ、戦後しばらくして西東京の街に戻ってきた。

そして私たちが暮らしていたのは、どこまでも家々が連なる住宅街。

中心地から遠く離れ、生きた文化の気配を感じるためには自転車やバスでお気に入りの街へと出かけなればならなかった。

そんな環境で育った私は結局、自分が育った場所に必然も愛着も感じられていなかったのだと思う。


少し話は逸れるが10代の終わり、はじめての(完全な)ひとり旅で沖縄に行った時、

みんなが自己紹介のように沖縄の歌を歌えるのがうらやましくて、(沖縄民謡を自己紹介の歌と捉えているようなところがうらやましくて)、東京に帰ってきてから地域の市民センターの講座でおじいさん、おばあさんに混ざって民謡を習っていた時期もあったのだけれど、

これもたぶん、根っこは同じ話。

そういう、寄る辺ない思いもまた、私を地方移住に向かわせた大きな要因の一つなのだ。


そして今。

春はたけのこ、夏からはフルーツ、自分で養蜂したはちみつを持参するときもあるし、友達が育てた野菜とか、大好きな店主の自家焙煎コーヒーを贈ることもある。もはや手土産だらけの毎日だ。

全部、自信満々で、「美味しいから食べてみて!』「ためしてみて!」って、自分が育てたり作ったぐらいの顔をして贈っている。図々しい私。


都市の課題とか、地方の可能性とかなんとか、

あんまり言いたくないしいつも言わないようにしている。

けれど、こうして手土産にあふれる暮らしができるようになったという一点だけをとっても、私はここに暮らせてとても幸せだと思っている。私はね。

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